小学生の母になってすぐの頃、驚いたことがあった。
連絡帳の書きだしに担任の先生が「お世話になっております」と書いていたことだ。
会社かい!? お客かい!? 取引相手かい!?
お世話になっているのはウチの子であり、私は担任の先生のお世話をした覚えはない。私は教師の客でも何でもなく、共に手を取り合って子どもの成長を願う同志のようなものだ。むしろ同僚に「お疲れ様です」と相手の労をねぎらうような間柄ではないだろうか。
親と教師との距離感、そして関係性が昔とはずいぶん違っているんだなぁと思ってしまった。
自分が小学生の頃は、少なくとも親は教師をリスペクトしていたし、何か問題が発生しても教師主導のもと問題解決にあたっていたように思う。教師は教師で、彼らが向き合うのは子どもであり、その親の存在感というのは結果報告の相手だったり、解決のためのフォローをしてもらいたいときの助力的存在だった。
それが今では、教師は子どもに向かっているようで実はその後ろにいる親の評価を非常に気にしている。
対して、親の方も教師を厳格に評価する。
ダメ教師の烙印を押されたくない教師は、子どもを含め親の評価が気になるあまりフレンドリーさやトモダチのような関係性を築こうとし、さらに自分の地位を下げてしまった結果、さらにダメになっていく。
まさにサラリーマン。上司(=親)の評価は絶対であり、いい仕事(=良い教育)ができたかということよりも、上司にどう映っているかを気にする。一方で親は、自分は客で、教師は営業マン的な立ち位置であると固持する。客は営業マンがどんなに良いサービス(=教育)を提供しても1度の失敗も許さず、100%の顧客満足を求め、サービスが悪ければクレームをつける。時に営業マンの上司(=校長)に怒鳴りこむ始末だ。
いろんな意味で、教育というものに鈍感だった昔は良かったように思える。鈍感さは時に寛容で、時に温厚で、時に人を大らかにする。
今の教育現場でのピリピリと尖ったような感覚や、あらゆることに敏感に反応してしまう態勢は、ルールでがんじがらめになった応用の利かない小社会を作ってしまっているように感じる。
公共の利益のために全員に平等に奉仕することが公務員の義務だと言われるが、それはどの子どもにも同じように目をかけ、同じだけの時間手をかけることではないと思っている。
子どもには個性があるし、能力の差もある。子どもは一律ではない。
彼らの成長スピードにも個人差があり、5分で分かる子には5分かければいいし、30分かかる子には30分を費やす。教えなくても分かっている子は放っておき、むしろそういう子には他の子の面倒を見てもらうくらいでも良いと思う。それが公平に接するということではないだろうか。
「全員に目が行き届いていない」と言われるのは、「全員に平等に同じ時間を費やそう」とするからだ。そんなことは土台無理な話で、まさに所得格差を無視して税率を一律にするようなもので結局は不公平感が生まれる。
つくづく「やりにくい」業界だなと思うし、つくづく「私には向いてなかった」と思う元・教育学部の母であった。。。
日本の先生にエールを!
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